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水俣病とメディア・1
昨日、法政大学内で開かれた「水俣」のテレビドキュメンタリーを読み解く−環境報道アーカイブの構築に向けて−というシンポに参加した。水俣病発生から半世紀過ぎ、今年ようやく制定された「水俣病特措法」はチッソの企業責任を曖昧にしたと、患者支援者から抗議の声が上がっているが、このシンポでは「報道」という視点から、水俣病の歴史を読み解こうという、極めてユニークかつ意欲的なプログラムだと思う。
昨日ののシンポジウムに参加した人は、ざっと数えると50人くらいいただろうか。会場となった教室は、普段ゼミ等で使われる小さな教室であり、部屋の中はすし詰め状態だったが、裏を返せば、日本で初めて「公害病」に認定された水俣病をについて、これだけ関心を持ってくれる人がいるということは、主催者側には想定外の事態だったそうだ。なぜならば、過去の水俣病のシンポの参加人数は、それほど集まらなかったそうだ。シンポに集まったのは中・壮年層が多く、若い人はあまり見あたらなかった。公害病も立派な環境問題だと思うのだが、この問題にあまり関心を持ってくれる人が多くないのは残念だ。蛇足ながら、このシンポの会場だった法政大学内は、学園祭が開かれていた。彼らのうちの何人かが参加してくれたら、このシンポジウムはもっと盛り上がっていただろう。
法政大学ではこのほど、大学院のなかに「特定課題研究所 環境報道アーカイブ研究所」を設けることになった。テレビの場合、報道番組は主にニュース、ドキュメンタリー番組として放送される。研究のためにはそういう番組も必要なのでアーカイブ収集を続けてきたが、日本の場合、原則としてニュースは保存しないという問題が発覚した。水俣も例外ではなく、実際にテレビ画面を通じて知る情報は保存されないテレビ局内に編集前の映像素材は残っているが、原則として公開対象が内部だけで、外部の人間は簡単に閲覧できないため、これまでの研究で構築したネットワークのなかから、協力者を見つけて研究を続けてきた。その過程で大変なことに気がついた。なぜならば、取材対象者の描かれ方の問題がわかってきたからだ。
ニュース番組、ドキュメンタリーは視聴率が低くても見ている人がいるが、その記録が全く残されない、簡単に見られない、あの時どんな番組を見て振り返ることができない状態が続いてきた。映像も最重要資料のはずだが、資料が保管されていないため研究が簡単にできないのは大きな問題だ。放送事業者が取り組めばいいが、その取り組みが進まない以上、自分達の研究のために集めてきた素材を整理・保存し、アーカイブをきちんと構築しようと思った。そのための研究所を先月発足させ、このシンポジウムが初めての仕事である。
理想と現実の狭間で
「ビジネスの基軸を23.4度傾けよう」
これは「環境とCSRと『志』のビジネス情報誌」オルタナ第15号の編集後記に書かれていたスローガンである。オルタナは2007年に、もと日本経済新聞社記者である森 摂(もり・せつ)氏らが中心になって創刊されたビジネス雑誌で、企業の「別のモノサシとは何か」を探り、企業の社会責任(CSR)、LOHAS的なもの、環境保護やエコロジーなど、サステナビリティ(持続可能性)を希求す る社会全般の動きを追求することをコンセプトにしている,ちょっとユニークなビジネス雑誌である。この雑誌はビジネスを「社会悪」と見なさず、中小企業の先進的な企業活動を社会に広く伝えることで、大企業の活動にも影響を与える事を狙うことを編集方針に掲げている。のは、環境問題やNGO・NPOの記事を積極的に取り上げ、企業の社会貢献(CSR)情報を紹介するなど、雑誌が他の経済誌・ビジネス誌と一線を画している…はずだった。
ここで「だった」と過去形の表現にしたのは、最新号の16号の特集記事に、違和感を覚えたからだ。
この雑誌は第4号(2007年10月発行)で「エコカー」について取り上げている。その記事で同誌はエコカーについて様々な視点から検証を試み、自動車メーカーの言い分について異議を唱えている。政府が「エコポイント」制度を設立したことで注目を浴びている「エコカー」だが、当時は自動車ユーザーの間でも「知る人ぞ知る」存在で、メディアも今ほど注目していなかった記憶がある。当時は世界的な食糧危機が叫ばれていた時代で、その原因として,サトウキビの大生産国であるブラジルなどが「食用のサトウキビよりも、バイオ燃料に生成したほうが儲かると判断したから」とという噂が流れていた。だがエコカーは一般車に比べてはるかに高額であり(現在もだが)、同誌はエコカーは「買う」よりも「借りる」ほうがお得だと論評している。
環境ライター・奥田みのり氏は、自分のブログでエコカーについて取り上げ、その中でエコカーは10万キロ走らないとCO2排出のメリットはなく(トヨタ・プリウスの場合)、他の自動車メーカーも、どのくらい乗ると、エコカーのメリットがでてくるのか公表していないことを指摘し、その線引きに必要な数値を公表しないで「エコカーは環境にいい」とPRする企業は、企業が本気で環境を大切にしようとしていない証拠だと憤慨していた。
TwitterとNHK
NHKが、16・17の両日、ニュース番組でtwitterを3回にわたり特集した。twitterがテレビに登場するのは、8月に放映されたテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」以来である。番組の構成は、ユーザーがtwitterを使う様子を紹介しつつ、昨日の「ニュースウォッチ9」や今朝放映された経済ワイドビジョンeでは、一昨日えびすで開催されたイベントの様子を紹介していた。
しかしその取り上げれられかたは、お世辞にも好意的な物だとはいえない。今朝放映された「ビジョンe」では、twitter創設者のスピーチが放映されていたが、このイベントに参加していたtwitter利用者は、自分のページに
「なんでわざわざ初見の人が沢山いると思われるNHKの報道で『ツイッターは役に立たないが、楽しければいい』っていうプレゼンのスライドを抽出して表示するんだろうか」
と、露骨にNHKの報道姿勢に反発していた。図々しいことに、NHKの取材クルーは、このコメントを寄せた人間(NHKは、彼を取材して放映している)に、
「今度遊ぼうね〜」
と声をかけたそうだが、今考えると
「オレたちが取材してやったんだから、なんかあったら付き合え!」
というニュアンスがプンプン漂ってくる。
キャスターのまとめ方も最低で、「ニュースウォッチ9」のキャスターは、
「自分はtwitterをやったことがないのでよくわからないが、正直どこが面白いのかよくわからない。海外のネットの世界にはウソの情報が流れているから、外ではウソが流れている。正確な情報かどうかを見極める必要がある」
と言い放ち、今朝の「ビジョンe」のキャスターも
「こういうものでしかつながれないというのは少しさびしいですね」
というニュアンスの発言をしていたことで、twitter利用者は反発している。ネット・コミュニケーションについて、故・筑紫哲也は10年くらい前に
「便所の落書きのようなもの」
と表現してネチズンの反発を買ったことがあったが、メディア関係者のネット・コミュニケーションツール及びネットメディアに対する見方は、今も全く変わっていないのだ。
激動のルーマニア’89
9月20日に開催された、前朝日新聞記者・伊藤千尋氏のトークショー「奇聞総解」。
最終回の今日は、日本から帰ってきてベトナムへの取材旅行、’89年におこった激動の時代のヨーロッパについて語って戴きます。
中南米から帰ってきた時にできた雑誌がAERAだった。日本のタイムを目指したが、雑誌編集は未経験で、長い記事を書いたことがなかった。当時の編集長が好きにやろうという方針だったので、ベトナムに行ってみたい、あのベトナムがなぜアメリカに勝てたのか、北から南までインタビューしてベトナム戦争に取材したいと思ったら、企画が通ってベトナムに取材することになった。事前準備・取材活動・記事をまとめる作業に各2週間かけた。
戦争終結で、兵隊は皆失業者になり、賠償金はアメリカからもらったわけではない。当時の軍隊は皆会社になった。部隊長が社長になった。資本主義なんか経験していない。なにを作ろうかというので相談したら、ギターを作ろうということになった。夜ギターを弾きながら「頑張ろう」と団結していたのを思い出し、ギターを作ったけど売れなかった。考えてみればそれは当たり前で、これから社会復興しようというのにギターなんか売れるわけがない。それだったら、自分達の服を縫っていたで消耗品を作ろうということでシャツを作った。売れたが国内ではあまりお金にならない。金を持っているところに売ろう、なにをやったら売ろうというので調査のために派遣し、現地を見て下した結論が「高級家具を作ろう」だった。当時のタイは好況で、ルイ14世風の家具を作ったら売れるだろうとなった。政府が復興したわけではない。自分達で自分の経済を立て直した。
現地でも、ベトナム戦争で被害にあった家族に取材した。一生懸命答えてくれたけれど、ところどころ言葉に詰まるところがあった。それを見て、記者としての初任地である長崎のことを思い出した。
思い出して他人にしゃべるというのは、被害者・犠牲者にとってはつらい作業だ。何度も何度も同じことを聞かれる側は、その度につらい、思い出したくない記憶を蘇らせなくてはならない。それは、聞かれる当人にとってはとてもつらいことだ。長崎の被爆者も毎年8月になると、メディア各社から原爆について同じことを聞かれる。これでは、答える方だってイヤになる。当時は、そのことに気がつかなかった。
横浜フォトジャーナリストフェスティバル
昨日、9年ぶりに横浜に行ってきた。お目当ては、日本で唯一の写真月刊誌「DAYS JAPAN」が主催している「DAYS 国際フォトジャーナリズムフェスティバル」である。
「DAYS JAPAN」は日本のフォト・ジャーナリズムの第一人者広河隆一氏が
「人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」
「一枚の写真が国家を動かすこともある」
をコンセプトに、2005年に創刊された雑誌である。だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。
私は編集者の学校に通い、2年あまりという短い期間だが、印刷会社で働いた経験がある。その経験から言えることは、写真雑誌は採算のとれない雑誌だということだ。理由を細かくいうと専門的になってしまうのだが、雑誌に限らず印刷物というのは、4色(赤・青・黄・黒)の組み合わせで出てきている。カラー写真をカラーの紙面に掲載する場合、前述の4色に「分解」しなくてはいけないのだが、これが結構時間がかかる。それに取材費やらなにやらで諸々の費用がかかるため、よほどの大資本がバックについている写真雑誌でも、採算を取るのは極めて難しいというのが現状だ。写真週刊誌の草分けだった「FOCUS」が休刊(実質的には「廃刊」)に追い込まれたのも、発効部数低下に加え、取材費・材料費等で累積赤字がかさんだから、とも言われている。
「DAYS JAPAN」は大資本がバックにつかず、広河氏の熱意だけで動いているが、創刊当初からたえず資金難の問題がついて回った。
「6,500人の定期購読者がいます。あと1,000人増えたら安定します」
と広河氏自身が訴えたのは、創刊から2年あまり経った’06年6月のことだ。それでもこの雑誌は、多くの心ある読者、支援者、そして広河氏の熱意によって、何とかここまで続けることができた。
「海外特派員」の裏事情
20日に開催された、伊藤千尋トークショー「奇聞総解」の第3回目報告。
今日は、彼が海外特派員になったきっかけと、特派員の現状についてお知らせしたい。
国内で仕事に打ち込んでいたある日、朝日新聞の外報部長が伊藤氏に「中南米特派員」の話を打診してきた。伊藤氏の前に内定者がいたのだが、諸々の事情で流れてしまったのだ。彼に白羽の矢が立ったのには理由がある。彼は大学時代にキューバで砂糖狩りをして、スペイン語を学んだ経験がある。その経験を生かすため、彼は履歴書に「自分はスペイン語ができます」とアピールしていたのを、外報部長が覚えていたのだ。
当時の海外特派員は、外国語学部or外国語大学でスペイン語を専攻した人間が、社内研修を受けた後に赴任するシステムだった。当時の南米支局はサンパウロに拠点を置き、3人チームが5つあり、ローテンションを組んで南米各国をあちこち回っていた。ところが、ここで問題が発生した。履歴書で「自分はスペイン語ができる」と書いた伊藤氏だったが、すでにこの頃はスペイン語を忘れてしまっていたのである。当時の特派員仲間は英語が堪能だったが、自分は当時英語が全くできなかった。外国人の電話は全部外報部に回される。学生アルバイトも英語で応対するが、自分はなにもできないと、内心忸怩たる思いだったらしい。英語で対応するアルバイトの姿を見て、何とか対応しなければならないと思っていたそうである。
特派員に決定した当初は「オレにつとまるのか?」と不安だったらしい。南米支局に赴任途中、ニューヨーク総局に挨拶のために立ち寄った。機中で旅行者の人が何か英単語をいったが聞き取れず、あとで調べたら、その単語は中学レベルの単語だったことを知って愕然としたそうだ。 スペイン語も忘れた上に英語のレベルも怪しいのでプレッシャーを感じた伊藤氏はプレッシャーで夜も眠れず、乗っていた飛行機が落ちてしまえなどと物騒なことを思っていたそうだ。ところが、ニューヨーク到着直前に見た夜明けの五大湖のすばらしさに感動し、一転して「オレの将来は明るい」と思ったというから、なにが幸いするかわからない。
ニューヨークにある近代美術館で、たまたま見た写真に伊藤氏はびっくりした。その写真はヨセミテ公園の写真だった。その写真を見て彼は「写真は、人間に感動をもたらせるのかと」思ったそうだ。その写真を撮影したアンセル・アダムズは、この写真を撮るために1年、365日公園内を歩き回って1枚の写真を仕上げたという。彼は写真の詩人といわれたそうで、それを知った伊藤氏は「だったらオレは新聞の詩人と呼ばれるようになろう」と決意した。こうして、彼の南米特派員生活はスタートしたのだった。
人間の数=ニュースの数
先日、伊藤千尋氏の「奇聞総解」を紹介したところ、結構な数のアクセスがあった。
今日は第2弾として、筑豊時代のエピソードを紹介したい。
彼が筑豊地区に赴任したとき、すでに炭鉱のほとんどは閉山していて、「一番の産業は失業者」と揶揄されている状態だった。事件も起きない、長崎みたいな重い経験もないから記事が埋まらない。それでも記事を書かなければならない。頭を抱えていたが、ふと気がついた。街が70年あるということは、それだけ人間の歴史があるということだ。だから、街のかわりに人間の歴史を書こうと思ったそうだ。人間の数だけニュースがある、どんな人間でも生涯に3回輝ける瞬間があると発想の展開をしたら、「なにもない街」は一転してニュースの宝庫になったのである。
当時は現在と違い、役場に置いてある住民台帳を自由に閲覧できた。台帳からその地で特徴的な人選びだし、その人を記事に取り上げた。街の歴史と人の歴史を重ねて記事にすると、紙面が半分以上埋まり、面白い記事になった。彼が講演で「人と人は、いつかわかり合える」という持論を繰り返しているのは、こういう経験をたくさん積んできたからだ。
「記者」?「御用聞き」?
昨日、数年来の知人である「前」朝日新聞記者・伊藤千尋氏のトークショー「奇聞総解」に行ってきた。最近の伊藤氏は、週末講演活動で忙しく、前回奇聞総解を開催したのは、「チェ・ゲバラ」をテーマに開催した1年半前までさかのぼらなくてはならない。しかも私はパソコンが故障して、彼の名前を冠したMLでのやりとりもできなかったから、彼とお会いするのは4年ぶりである。
先ほど、伊藤氏のことを「前」朝日新聞記者と紹介したのは、今月の15日で朝日新聞を定年退職したからだ。定年退職後も現在の所属先である朝日新聞「be」編集部に嘱託社員として残ることができるそうだが、1年間の契約らしい。彼は新しいメディア創刊を考えているというが、具体的な計画は追々紹介するとして…。
伊藤氏がこのトークショーを始めたのは、’93年である。私がピースボートでボランティアを開始したのはその5年後。伊藤氏はピースボートでも人気がある「水先案内人(船の中で講演してくれる人)」であり、ピースボート事務局にちょくちょく遊びに来ていたのだが、「オレは朝日新聞の記者だ」というオーラがびしばしと出ていて、何か近づきがたい雰囲気だった。だが彼の名を冠したMLに参加し、奇聞総解に顔を出し、酒の席をともにして、彼のざっくばらんな性格に触れると、何でもっと早くお近づきにならなかったのかと、後悔することしきりだった。
始めたきっかけは、彼が新聞記者としてたえず忸怩たる思いを抱えていたからだ。相手に取材しても、実際に記事になるのはその数分の1に過ぎない。下手をすると、紙面に載る記事は取材量の1/10に過ぎない。これでは取材者に申し訳ない、だったら本を書こう、全国各地で講演しよう、それがこのトークショーの原点だそうだ。トークショーの「奇聞総解」という名前は
どんなに「奇」妙なことでも
一度「聞」けば
たちどころに「総」てが
「解」る
と言う意味が込められている。
会見を全メディアに開放
初っぱなから躓いたメディア対策を挽回した岡田、いい仕事をした。
岡田外相、記者会見を全メディアに原則開放
本来ならこの決定は、鳩山首相なり小沢・民主党幹事長の口から出るべきだったのだ。
なぜなら、この2人は「政権を取ったら記者クラブを廃止する」と明言していたからだ。
ところがいざ政権がスタートすると、鳩山政権はこれまでの発言を撤回し、記者クラブ廃止の件について凍結すると発表したため、ネチズン達は猛反発した。この話が流れた当初、平野官房長官、藤井財務相ら「民主党内保守は」が「記者クラブ開放」に難色を示し、裏でごそごそと立ち回っていたというまことしやかな話が流れていた。ところが、真相は違っていたようだ。
かねてから記者会見の取材を希望していたフリー・ジャーナリスト2人が、取材のために首相官邸で鳩山首相を待っていた。ところが首相官邸スタッフ(当然、役人)が裏工作を画策し、彼ら2人を入れなくしてしまったらしいのだ。官邸スタッフは「記者クラブ」解放に反対し、首相に近い政治家に入れ知恵をしたというのが真相らしい。新政権による「記者クラブ」解放を信じた国民はこの動きに反発し、政権への期待ムードはしぼみかけた。その矢先、このニュースが飛び込んできたのである。
岡田外相が、記者クラブ開放を巡る官邸周辺のドタバタぶりを、どこまで把握していたかはわからない。だが彼の「原理原則主義者」と言われるまでの頑固な性格は、民主党内はおろか永田町内でもつとに有名である。男たるもの、一度決めたものを簡単に翻すことがあってはならない。ましてや、公約をクルクル変えるようでは、政治家としての沽券に関わる。彼がこう考えてもおかしくない。
DAYS JAPANの記事より
先日、ネットで注文していた「DAYS JAPAN」最新号(9月号)が届いた。この雑誌は私もかつて参加していたNGO「ピースボート」の水先案内人(=クルーズ参加者を対象とした講演会を開く人)として知られるフォトジャーナリスト・広河隆一氏を編集長とする写真月刊誌で、大メディアが報道しないニュースを積極的に報道している。私はこの雑誌の存在意義を認め、高く評価している一人なのだが、一冊880円という価格がネックになって、いつも立ち読みだけに終わっていた。
今回、この雑誌を購入したのは、知人の環境ジャーナリスト・奥田みのり氏が今月号の同誌に寄稿しており、どんな記事を書いているのか興味があったからだ。本人もネットで「記事を書いたからよろしく」といっていたので、彼女を応援したいと思ったからだ。
奥田氏は長年、水俣病問題を追いかけており、同誌今月号に「救済は名ばかり 水俣病特措法」という記事を寄稿している。本人のブログに掲載している、水俣病関連の記事をまとめたものだが、本記事では法律・歴史・行政と多角的にこの問題を捉えた、極めてバランスのいい記事に仕上がっている。
この記事のポイントは2つ。債務者(ここでは「チッソ」)が詐害行為−債務者が故意に財産を処分し、債権者の債権回収を妨害する行為のこと−を発動して財産を守る行動に出た場合、債権者(ここでは「水俣病」患者)が詐害行為取消権という、民法で認められている対抗手段が特措法では盛り込まれていないこと。しかもこの特措法では、チッソが子会社を設立するに当たり、必要な手続き−登録や不動産取得にかかる諸々の税金等−が明記されている。












