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水俣病とメディア・1

2009 - 11/04 [Wed] - 16:13

 昨日、法政大学内で開かれた「水俣」のテレビドキュメンタリーを読み解く-環境報道アーカイブの構築に向けて-というシンポに参加した。水俣病発生から半世紀過ぎ、今年ようやく制定された「水俣病特措法」はチッソの企業責任を曖昧にしたと、患者支援者から抗議の声が上がっているが、このシンポでは「報道」という視点から、水俣病の歴史を読み解こうという、極めてユニークかつ意欲的なプログラムだと思う。
 昨日ののシンポジウムに参加した人は、ざっと数えると50人くらいいただろうか。会場となった教室は、普段ゼミ等で使われる小さな教室であり、部屋の中はすし詰め状態だったが、裏を返せば、日本で初めて「公害病」に認定された水俣病をについて、これだけ関心を持ってくれる人がいるということは、主催者側には想定外の事態だったそうだ。なぜならば、過去の水俣病のシンポの参加人数は、それほど集まらなかったそうだ。シンポに集まったのは中・壮年層が多く、若い人はあまり見あたらなかった。公害病も立派な環境問題だと思うのだが、この問題にあまり関心を持ってくれる人が多くないのは残念だ。蛇足ながら、このシンポの会場だった法政大学内は、学園祭が開かれていた。彼らのうちの何人かが参加してくれたら、このシンポジウムはもっと盛り上がっていただろう。
 法政大学ではこのほど、大学院のなかに「特定課題研究所 環境報道アーカイブ研究所」を設けることになった。テレビの場合、報道番組は主にニュース、ドキュメンタリー番組として放送される。研究のためにはそういう番組も必要なのでアーカイブ収集を続けてきたが、日本の場合、原則としてニュースは保存しないという問題が発覚した。水俣も例外ではなく、実際にテレビ画面を通じて知る情報は保存されないテレビ局内に編集前の映像素材は残っているが、原則として公開対象が内部だけで、外部の人間は簡単に閲覧できないため、これまでの研究で構築したネットワークのなかから、協力者を見つけて研究を続けてきた。その過程で大変なことに気がついた。なぜならば、取材対象者の描かれ方の問題がわかってきたからだ。
 ニュース番組、ドキュメンタリーは視聴率が低くても見ている人がいるが、その記録が全く残されない、簡単に見られない、あの時どんな番組を見て振り返ることができない状態が続いてきた。映像も最重要資料のはずだが、資料が保管されていないため研究が簡単にできないのは大きな問題だ。放送事業者が取り組めばいいが、その取り組みが進まない以上、自分達の研究のために集めてきた素材を整理・保存し、アーカイブをきちんと構築しようと思った。そのための研究所を先月発足させ、このシンポジウムが初めての仕事である。 

 水俣病の問題は、敗戦後の日本にとってはエポックメイキング的な事件である。歴史的から見ると、1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と言う一言がある。日本の「脱戦後宣言」は、敗戦からの復興は終えたのだ。ということを意味する。その年は、水俣病の公式確認された年でもある。
 1956年5月1日、この日はチッソ付属病院長が水俣保健所に報告した日である。これは偶然と考えるべきではない。つまり、日本経済。工業生産のあり方が新しい段階にさしかかり、そこで未曾有の公害事件が公式に確認されたというとらえ方をしておく必要がある。これを起点とすると、テレビ放映とこの事件の歩みはほぼ一致している。水俣病が公式に確認されたのちょうど3年後だが、この時点を含めても水俣病は半世紀を超えている。テレビ報道もまた同じだ。水俣病事件は、様々な重要な局面が、テレビによって描かれ伝えられ、報道された歴史を持つ。大勢の人が、テレビを見ることでこの事件を経験した歴史がある。事件そのものが描かれているわけではない。いろいろな様相があるが、それがテレビによって描かれ、どのように経験してきたかを考えることは重要だ。
 新聞について触れなければならない。公式確認の第一報は新聞で、西日本新聞が一週間後にやった。この新聞は全国紙ではなく、九州エリアのブロック紙である。つまり、当初は九州の人が最初に知ったが、初期は急性型の患者が多数発生し、致死率も高かった。それが3年続いたにもかかわらず、全国報道されていなかった。西日本新聞と熊本日々新聞、全国紙は朝日、読売、
毎日の地方版しか扱っていなかった。
 全国報道されたのは1959年である。その年の11月、不知火海漁民紛争があった。当時、不知火湾の魚を食べた住民が倒れるという被害が続出した。その原因が魚にあり、その周辺が危ないという噂が流れ、全く売れなくなった。原因がチッソの工場排水だと判明していた。漁獲不振が続いて魚が売れないため、漁業関係者がチッソに補償を求めて面会を要求するが、チッソはそれに応じず、衝突事件が発生した。たまたま国会議員が現地視察をし、随行記者の目のまえで大規模な暴動があり、それで初めて全国紙に報道された。記者が「水俣で暴動」と大々的に伝え、騒乱事件として一般に報道された。何十人の患者が死に、さまざまな研究が行われ、原因がわかっているにもかかわらず、である。
 その後の調査研究で、テレビでは新聞報道よりも4ヶ月前に報道されていたことがわかった。水俣で原因不明の病気が発生しており、そのことをスクープしようとした新聞があったのだが、なぜかその問題は報道されなかった。デスクの判断だといわれているが、そのほかにも理由にならない理由をつけて、この問題を報道しないように圧力がかかったことが明らかになっている。そのため、水俣病の報道に関しては最初から問題を抱えている。 
 そのニュース番組は保存されていないが、素材映像は見ることができる。それは、それまでの報道で伝えられなかった事実が描かれている。この素材を見て驚いたのは、チッソ工場の中に入り、動物実験室の映像を捉え得ていたのである。これは非常に大きな意味がある。チッソは当時、うちでは有機水銀を扱っていないと主張していたが、動物実験室では水俣病の排水を入れたえさを与える実験を始め、チッソ自身が確認されていたのではないかという素材が収められていた。この映像はデジタル化されて保存されている。
 会場内で、、その時の素材映像が放映される。素材映像で編集前の段階なので、ナレーションは入っていない。当然のことながら、画面は白黒である。映像の冒頭で、当時の水俣市長が何事かしゃべっているが、音声が入っていないため、内容を知ることができないのが残念だ。フィルムには、当時のチッソ付属病院や水俣市立病院の様子が収録されていた。患者は、子供達が圧倒的に多かったことが映像からわかる。子供達の視線は定まらず、彼らの世話をしている親の表情は、将来が見えないためにどことなく暗そうに見えた。病理解剖された脳の映像も収録されていた。画像が白黒だから正視できたが、もしこれがカラー映像だったら、ショックで卒倒する人もいたかも知れない。素材映像には、半世紀前の水俣港や沖合の様子や、病院を視察した県議会議員の様子も撮影されていた。患者の様子を見た県議達が、どんな感想を持ったのか、今となっては確かめるすべがないのが残念だ。そして、この素材映像がどのように編集されて放映されたのか、我々が検証することはできない。ただこれらの映像はドキュメンタリー用に編集される事で、視聴者に伝わるのだ。

 ※このレポートは続きがあります。今回はここまで。
 私がまとめたメモをまとめているので、一部間違いがあるかも知れないということをご承知願います。

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Author:PSILA
「平和」・「自由」・「平等」を愛する、ワーキングプア階層に属するしがない中年フリーター。
ひょんなことからボランティア精神に目覚め、某NGO主催のクルーズに参加したことがきっかけで「9・11」以降都内近郊で開かれた平和関係イベントに積極的に参加し、その模様をネットに公開するようになる。
このBLOGは、生活苦と闘うワーキング・プア中年男性フリーターの軌跡を綴るものである

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